HOME

 

書評

 

井上達夫著『普遍の再生』

 

岩波書店2003.7.刊行(1400)

『週刊読書人』2003.10.31., 4.

 

八〇年代の思想潮流がポストモダンの「軽快な知的遠心力」に支えられたとすれば、現代の思想潮流は、新保守主義やナショナリズムなどの「強い道徳的求心力」をもった言説へと旋回を遂げている。しかしポスト近代の諸思想は、どれも論理において息が短い。現代人は哲学的思考や自己批判を回避して、自らの存在をまったき肯定の文脈に位置付けるという「力への欲動」を抱いているのではあるまいか。本書はそうした現代の思想状況と対峙しつつ、批判的な知性の復権を呼びかける警鐘の書だ。戦争責任論、アジア的価値論、ナショナリズム、多文化主義、フェミニズム、歴史的文脈主義といった思想を具体的素材としつつ、それぞれの問題に対して真摯な応答が試みられる。

戦争責任をめぐって著者は、アジアに対する侵略責任の問題を棚上げにして天皇および戦争指導者たちの戦争責任を追及することはできないと主張する。日本はアメリカと戦って中国を争奪されたのではなく、まさに中国を侵略したのであるから、その犠牲者たちに責任を負うのは当然である。しかしなぜ多くの日本人がその責任を認めようとしないのかと言えば、それは人々の利己的な自己肯定欲にあるという。この集団的利己主義に制御をかける「批判的認識」こそ、自身の病理を克服する手段であると著者は訴える。

欧米中心主義に抗するアジア的共同体主義に対しては、アジアが単一の価値に基づかないこと、欧米における自由民主主義の歴史と実践を聖化する必要はないこと、自国固有の文化という基準によって隠蔽される価値に感受性をもつべきこと、アジアにおける個人主義の豊かな伝統を認識すべきこと、などが指摘される。国民国家論をめぐっては、四つのテキストを読み解くかたちで諸問題が整理されており、とりわけベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』に対する手厳しい批判が光る。多文化主義に関しては、この思想が局面次第でナショナリズムやリベラリズムと結合したり反発し合うという論理的関係が、丹念に解明されている。そして文化の自由市場におけるマイノリティ支援や、マイノリティ文化に属する子供の教育機会の公的確保が、リベラリズムの立場から要請されることが示される。また、私的領域を放置するリベラリズムを批判する現代のフェミニズムに対して著者は、リベラリズムが「女性の自己決定権としてのプライヴァシーの権利」を政治問題化しうることを強調している。プライヴァシーは私秘的なものではなく、自律を促すべき政治領域たりうる、というわけである。

最終章では、「内発的普遍主義」の哲学が展開される。諸文脈に感応しながら普遍化可能な論理を創造していく知の批判的営みこそ、規範原理の最適化に必要である――これが本書の柱となる提言だ。この主張はおそらく、ロールズのリベラリズムや共同体主義の論客たちが総じて肯定する「歴史的文脈主義」に対して、大きな批判的威力をもつものであろう。なるほど世の中には、対話力を欠くが文章力に長けた哲学者たちが、自らの穴倉を確保するために普遍主義の行き過ぎを制約しようと思案している。これに対してその閉塞的エゴを打破する論理を提供しようというのが、井上流リベラリズムの企てに他ならない。対話力を鍛えるために、本書は格好の素材となるであろう。

 

橋本努(北海道大助教授・専攻 政治哲学・経済思想